9月:猪俣百八燈(いのまたひゃくはっとう)
内科医 内山 隆久
更新日:2021-9-1
後三年の役の恩賞に皇位継承問題も絡み、藤原信西と藤原信頼とが対立。応援団として後で支援する武士の腕力がものをいう時代に移り、源平が対抗意識を燃やすことになる。武将 小平六範綱(こへいろくのりつな)は源義明・頼朝に、平治の乱では源義平に仕えた。
「悪源太義平は、色も変らぬ17騎、本の陣にぞ控えたる。」 坂東武者は破れた鎧を繕う暇もなく、本陣で平重盛の攻撃に備えていた。義朝に従うつわものは、悪元太義平19歳・朝長(ともなが)16歳・頼朝12歳など子供ばかりで頼りない。しかし、鎌田正清、三浦義澄、斎藤実盛などの後見人がついていた。総勢は200余騎。陽明門の守りを固める平家勢は300騎。武士同士の本格的な闘争の始まりであった。
「軍は巳の刻の半ばより矢合わせして、互ひに退くかたなく、一時ばかリぞ戦ひける。重盛は、千騎の勢を二手に分けて、五百騎をば大宮面にたて、五百騎を相具して、待賢門に打破り喚(おめ)ひて駆入りければ、信頼ひと堪へも堪へず、大庭の樗(あふち)の木の元まで攻め付たり。」
重盛(23歳)は、平安文化の艶やかさを纏った若者。
「赤地の錦に直垂に、櫨(はじ)の匂ひの介(よろひ)に、蝶の裾金物をぞうちたりける。鵇毛(つきげ)なる馬の甚だ逞しきが八寸(やき)あまりなるに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置きてぞ乗りたりける。」
埼玉県児玉郡美里町。盆の季節には、坂東十七騎の1人として活躍した「小平六範綱」の霊を慰めて「猪俣百八燈」が焚かれる。「百八燈」と書かれた提灯を手に、堂前山の坂道を笛を吹き太鼓を叩きながら上る子供だけの行事。 何を思い、何を念じるのだろうか。
各地にみられる子供から大人への登龍門の一つ。何時までも残して置きたい文化である。